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最高裁判所第三小法廷 平成3年(あ)1048号 決定

主文

本件上告を棄却する。

理由

一  弁護人水谷賢の上告趣意第一、二点(第一点続いて第三点とあるのは第二点の誤りと認める。)について

所論は、要するに、原判決は被告人には訴訟能力がないと断定した上、公判手続を停止すべきであると判示したとの前提に立ち、本件のような被告人について公判手続を停止することは、被告人を生涯にわたり被告人の地位に置くことになるとして、憲法三七条一項違反、判例違反をいうにある。しかしながら、原判決は、被告人に「訴訟能力があると認めるには、極めて疑問が大きい」とは判示しているものの、これがないと断定しているものではなく、また、もし訴訟能力が欠けている場合は、手続の公正を確保するため、公判手続を停止すべきであると判示しているが、右公判手続停止の期間が異常に長期にわたり、かつ、訴訟能力回復の可能性が全くないと認められる場合は、検察官が公訴を取り消し、これに基づいて公訴棄却の決定がされることも十分考えられるとしているのであって、所論のように被告人が生涯にわたり被告人の地位に置かれることを肯定しているものでないことは明らかである。したがって、所論違憲及び判例違反をいう点は、すべて前提を欠く。

二  同第三点について

所論は、要するに、原判決は、聴覚障害者である被告人が健聴者であれば当然に保障される黙秘権や弁護人選任権等の告知が受けられなかったとしても、捜査官が告知の努力をしたのであるから捜査手続に違法があるとはいえないと判示したとの前提に立ち、かかる判示は、「聴覚障害者」という社会的身分により被告人を差別したものであって、憲法一四条に違反するというにある。しかしながら、原判決は、被告人に対する捜査手続において、被疑者の権利、ことに黙秘権、弁護人選任権の告知などにつき瑕疵があった疑いがなくはないとしつつも、公訴提起の効力に影響を及ぼすような違法があるとは認められないと判示しているのであって、所論は、原判決のしていない判断を前提として違憲をいうにすぎない。

三  同第四点について

所論は、憲法三一条違反をいうが、その実質は公訴提起の違法又は刑訴法三三八条四号の解釈の誤りをいう単なる法令違反の主張である。

以上、論旨は、すべて刑訴法四〇五条の上告理由に当たらない。

なお、職権により判断するに、刑訴法三一四条一項にいう「心神喪失の状態」とは、訴訟能力、すなわち、被告人としての重要な利害を弁別し、それに従って相当な防御をすることのできる能力を欠く状態をいうと解するのが相当である。

原判決の認定するところによれば、被告人は、耳も聞こえず、言葉も話せず、手話も会得しておらず、文字もほとんど分からないため、通訳人の通訳を介しても、被告人に対して黙秘権を告知することは不可能であり、また、法廷で行われている各訴訟行為の内容を正確に伝達することも困難で、被告人自身、現在置かれている立場を理解しているかどうかも疑問であるというのである。右事実関係によれば、被告人に訴訟能力があることには疑いがあるといわなければならない。そして、このような場合には、裁判所としては、同条四項により医師の意見を聴き、必要に応じ、更にろう(聾)教育の専門家の意見を聴くなどして、被告人の訴訟能力の有無について審理を尽くし、訴訟能力がないと認めるときは、原則として同条一項本文により、公判手続を停止すべきものと解するのが相当であり、これと同旨の原判断は、結局において、正当である。

よって、刑訴法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官千種秀夫の補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

裁判官千種秀夫の補足意見は、次のとおりである。

仮に被告人に訴訟能力がないと認めて公判手続を停止した場合におけるその後の措置について付言すると、裁判所は、訴訟の主宰者として、被告人の訴訟能力の回復状況について、定期的に検察官に報告を求めるなどして、これを把握しておくべきである。そして、その後も訴訟能力が回復されないとき、裁判所としては、検察官の公訴取消しがない限りは公判手続を停止した状態を続けなければならないものではなく、被告人の状態等によっては、手続を最終的に打ち切ることができるものと考えられる。ただ、訴訟能力の回復可能性の判断は、時間をかけた経過観察が必要であるから、手続の最終的打切りについては、事柄の性質上も特に慎重を期すべきである。

(裁判長裁判官 千種秀夫 裁判官 園部逸夫 裁判官 可部恒雄 裁判官 大野正男 裁判官 尾崎行信)

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